「愛は時間差で届く」

札幌の西野神社には、母犬を中心に十二支の子犬が並ぶ石像がある。
干支によって大小も表情も様々で、とてもかわいい。
札幌の西野神社には、母犬を中心に十二支の子犬が並ぶ石像がある。 干支によって大小も表情も様々で、とてもかわいい。
僕が4才の時の話。
母と妹、そして母方の祖父母と、ディズニーランドに行ったことがある。
はじめて飛行機に乗り、北海道から本州へ、祖父の運転で東京・横浜・越後湯沢を周って、新潟港からフェリーで小樽港に帰着する、大旅行だったらしい。
 
僕の記憶にも薄らと、でも印象強く残っている。
慣れない飛行機の気圧変化で、耳が痛くなり、CAさんに飴をもらったこと。
札幌には無いような、小さな体に絶望的なほど広く長い階段を、東京のどこかの駅で昇り降りしたこと。
本物のミッキーに会えると思って入園したら、知らない大きな猿が先に近寄ってきて、妹がギャン泣きしたこと。
けれど、その時に祖父母がどんな表情をしていたのかは、どうしても思い出せない。
 
実家にはいまでも、僕と妹が二人揃ってミッキー型のアイスを食べている、その時の写真が飾られている。
もっと成長してからの写真もあるだろうに。
それから、30年。
いまの妹は立派な母親として、2人の子どもに愛を注いでいる。
妹の上の子ども、僕の甥は、ちょうど4才になっている。
 
だから、尚更だろうか。
僕の母親は、孫を連れて3世代でディズニーに行きたい、と数年前から要望していた。
大人の手が余ることはなく、僕も増援に駆り出された。
母・僕・妹・甥・姪の5人で旅した、3泊4日。
もちろん、全て計画通りにはいかなかった。
 
せっかく課金した美女と野獣でも、アトラクションに乗る前から暗い怖い、と泣き出してしまう。
広いパークの僅かな範囲を行ったり来たりするだけで、残りは見ることも通ることも出来ない。
目の前のパレードはそこそこに、大人が手に持つチュロスの次の一口が気になる。
モノレールの自動操縦に興奮して一番前の席に座りたがり、目的地では駄々をこねる。
 
そんな孫の姿を見て、全ての出来事を優しく包み込みながら、ずっと微笑む母。
僕はそんな母の表情を見て、愛や幸せってこういうことなんだろうな、と感じる。
そしてふと、僕が4才でディズニーランドを訪れた時も、祖父母はこんな表情をしていたのだろうか、と思い至る。
 
かつて自分に注がれていた愛を、時間差で受け取った瞬間だった。
 
話は変わり、あと数ヶ月で生まれる我が子の安産祈願。
5月の札幌は桜が見頃で、とても良く晴れた素晴らしい日のこと。
午前中で仕事を終えた僕と妻は、母と共に郊外の神社へ向かった。
 
僕たちが祈祷いただいた札幌の西野神社には、十二支に当たるそれぞれの子犬の石像がある。
我が子は辰年。
辰に当たる子犬は、他の子犬に比べ最も小柄で、まだ目も開ききっていない中、母犬の一番後ろのお乳を飲んでいた。
僕はそんな子犬を優しく撫でて、我が子が健やかに生まれてきてくれることを願った。
 
なんだろう、子犬の石像なのに、大変愛おしい。
石像ですらこんな気持ちになのに、いざ我が子が生まれてきたなら、どんな感情になるのか。
そう考える自分に気がついた瞬間、また少しだけ父親になる自覚が育ったように思えた。
 
「ねえ、俺が生まれてくる時、どんなこと思った?」
隣にいる母には、なんだか恥ずかしくて、そんな疑問は口が裂けても聞けないだろう。
仮に聞いたとしても、きっと母のほうが恥ずかしがって、うやむやに聞き流されてしまうのだろう。
けれども、自分に子どもが生まれることを通じて、ようやく両親もこんな気持ちだったのだろうか、と思いを馳せられるようになった。
 
かつて自分に注がれていた愛を、時間差で受け取った瞬間だった。
 
“かつて自分に注がれていた愛を、時間差で受け取った”
こう実感できることは、きっと幸せなことなんだろうな、と改めて思う。
今年読んだ書籍のいくつかは、まさに僕が抱えたような感情に寄り添い、同時に考えるべきこと・やるべきことを導いてくれるようであった。
 
以降は、それらを引用しながらつらつら書いていこうと思う。
 
===
 
僕らが必要としているにも関わらず、お金で買えないもの、その移動を”贈与”と呼んでいる書籍があった。
そして贈与とは、差出人にとっては未来時制、受取人にとっては過去時制になるらしい。
どういうことか。
 
例えば、親が子を育てる行為は、一方的な贈与とも捉えられる。
他人の親子を見ても思うように、親が子へ愛を注ぐ姿勢について、決して合理的行動と割り切れないことは、直感的にも理解できる。
それでも子に無償の愛を注げるのは、自分も親から無償の愛を受け取った、という前提条件があるためらしい。
親から子へ一方的な贈与を行うのではなく、過去に親もまたその親(子から見た祖父母)から一方的な贈与を受けていたのだ。
 
ただし、贈与はそれが贈与だと知られてはいけない、という側面も併せ持つ。
贈与が知られると、それは直ちに返礼の義務を生み出し、見返りを求めない贈与から”交換”へと変貌する。
すると、まだ幼い子どもは交換できるものを持たず、その負い目から呪いにかかってしまう。
親の顔色を伺い、時に頑張りすぎてしまう子どもを見聞きするが、そういった事例なのかもしれない。
 
「幼い頃を思い返すと、あれは贈与だったんだな。」
一定の時間を置いた上で、過去時制で認識される愛は、まさに贈与の名にふさわしい。 
僕は昔のことなんて覚えていなかったのに、時間差でようやくその愛に気がつくことができた。
僕の両親・祖父母は、きっと理想的な愛の注ぎ方をしていたのだろう。
 
そして子が大人となり、他者を愛せる人間へと成長した際に、親の贈与はようやく完了する。
子自身が親から愛された過去を認知し、贈与されたものを次の誰かに渡したいと思えた未来に、親の愛は時間差で正当性が証明される。
僕が我が子を愛する立場になったこと、次は贈与をしたいと思っていること。
最近の変化により、きっと母もようやく役目を果たすことができたのだと思う。
 
けれども、贈与を通じて生まれるのは、未来から過去へと渡るもの、あるいはやり取りが一方的なものばかりではない。
贈与を受ける子の存在自体が、贈与をする親へ大事なものを与えてくれる。
親は子へ愛を注ぐことにより、子はまた親へ生命力を与えてくれる。
もしかすると僕も、これから生まれる我が子に何かを与えることによって、この世に生まれた意味を知るのかもしれない。
 
 
贈与という言葉、昨今は特にお金を指して用いることが多いので、このような表現はとても印象的だった。
時に僕たちは経済活動に夢中になるが、あくまでそれは世界の片面に過ぎず、贈与できるのはお金ばかりではない。
先に述べたように、愛も立派な贈与の対象となりうるのである。
 
世間には、経済活動が全てかのような論調が存在し、社会には過剰なまでの欲望・競争が渦巻いている。
仮面を付けて背伸びせざるを得ない”外”の世界で生きるために、人間は開放されて癒やしてくれる”内”の世界、すなわち家庭での愛を求めたのかもしれない。
そして、主に”外”の人間である男性が戦い、主に”内”の人間である女性が施す、という構造が長く積み重なってきた。
 
一方で、歴史的に経済活動から切り離されていた数々の施しは、近年は金銭的対価と引き換えの労働へと姿を変えた。
その結果、保育や介護や接客のような無償で行われた歴史を持つ仕事において、その報酬は低く設定され、格差は広がってしまった。
 
我が子が生きるであろう、未来にある社会課題に向き合うとき、これらの問題は切っても切れないものになる。
人間は合理性だけでは生きられないし、社会と離れても生きられない。
水や食べ物は必要だし、幼い頃や老いた頃には他人の施しも必要。
複雑に絡みあったり、入れ替わったりするのが、いまに続く世の常であり、そこに生きる人間でもある。
 
我が子なら尚のこと、お金には苦労してほしくないし、大小様々な学びにも興味関心を持ってほしい。
しかし、身近な人・動物・自然に愛を注ぐことだって、立派な生きる活力になることも知ってほしい。
そのために、お金以外の人生に不可欠なもの、助け合い・共感・相互尊重の大切さを、親の身を持って証明したい。
 
 
お金があれば、この世に存在するたくさんのものを手にできること、たくさんの物事を動かすことができることは、きっと事実だと思う。
裏返しとして、この世はお金で動くものばかりではないことも、先に述べた通りだ。
そのため、生きる目的をお金にしてしまうと、お金で動く範囲がこの世の全てである、と錯覚することになる。
認識できる世界や、自分事として感じる範囲が、極めて限定されてしまうのである。
 
しかし、愛を注ぐべき存在が新しく生まれた瞬間、認識できる世界や、自分事に感じる範囲が、急に広くなる。
歩き慣れた街が、なんとなく捉えていた社会が、国が、未来が、突然関心が高まる。
なぜならば、愛する我が子はいつか手を離れ、親の知らない未来を歩むことになるからだ。
 
来たるべき未来において、国や社会はどうなっていて欲しいか。
せめて、我が子が生きることになる未来は、なるべく幸せなものであって欲しい。
そのために、お金で解決できるものは解決してあげたいし、そうでないものが多分に含まれることも、併せて想像できる。
 
もしかすると、そのためにも覚悟を決めて、全然違う生活・仕事をすべきだ、と思う時が来るかもしれない。
そして、僕の気持ちを我が子が知るのは何年も先だろうし、死ぬまで分からないかもしれない。
だけど、それでも良い。
僕はただ、これまで両親・祖父母から贈与されてきた愛を、我が子に贈与するだけだから。
 
 
結びに、上記書籍より一文を引用させていただく。
私もね、今、おなかの子をたくさん愛しているけど、この子は絶対そんなことわかっていないと思うのよね。 愛には、きっと時差があるのよ。 お父さんにもお母さんにも愛されていると思うから、この子をたくさん愛してあげられると思うのよね。 時差があるからこそ、未来に続いていくんじゃないかな