「説明責任を果たす」ってなんだろう
ここ半年の足取りを振り返ると、日々の業務はもちろん、採用や評価、あるいはチームの推進・取りまとめという立場から、何かと”Accountability”を意識することが多かった。
今回は、そもそも「説明責任を果たす」とはどういうことか、半年前の自分に向けて最近思うことをつらつらと書く。
1. ドキュメンテーション
会社・組織・仕事は、適切な粒度で領域が分かれることがほとんどで、その前提で互いの状況把握をするためにも、滑らかかつ過剰すぎない情報流通・ドキュメンテーションが不可欠であるように思う。
人員が増える・業務が複雑になるのみならず、黙っていても年月を重ねれば尚更、あらゆる箇所・階層での情報差分・認知負荷は広がってしまう。
これは、過去から未来に向かう時間軸の中でリソースを投下し、物事を前に進める万物において、仕方がないことのように感じられる。
(数十年来のツーカー夫婦の間柄だけならば、ある日突然「我が家のオキテ!」みたいなの作ってトイレに貼る必要無いだろうし、いや知らんけど)
それでも僕は、一人ひとりが意識して説明責任≒オープンネスの意識を持つこと自体が、結果として全体のチームワークに繋がると信じている。
情報を自分の中に留めておくのではなく、非同期であっても受け取り手に対して、適切な粒度で届けられるようにする。
これは新入社員でもベテランでも、誰であっても同じ、意識的に隠すなんてもってのほか。
(この人は何かを隠す人だな、と思ってしまった途端に、その人に対する信頼性はもろくも崩れ去るよね、経験上)
作業者としてなぜこれをやるべきかと言うと、ドキュメンテーションを意識するとWhy・What・Howのような事柄につき、自分で考えて文字に書き起こすことになる。
最終的に失敗しても、トップダウンの仕事をただこなした結果ではなく、自分自身がWhyから掘り下げた結果のため納得感があり、周囲もプロセス含めてチャレンジ自体を理解・称賛してくれるのである。
仮にトップダウン色が強かったとしても、御上は細かいやり方にまでは興味がない・成果が出てれば万事OKなことが多いだろうし。
(毎回毎回、細かいやり方を隅から隅まで口を出されるのであれば、それはマイクロマネジメントってやつだよ)
他方で、誰かが誰かと同じものを同じ解像度で見ることなど、現実的には不可能であろう。
故に、Whyや出すべき成果の認識が合意できているのであれば、自分がやるべきと思うことを好きなようにやるためにも、説明責任が伴ってくる。
ドキュメンテーションは、その説明責任を果たすための有効な手段である。
これらを社内調整という言葉で片付けて、本質的ではないと揶揄するだろうか?
いや、僕はそうは思わない。
何かを任される立場であれば、誰しもがやるべきこと・大事な責務だと思う。
(言われたことを黙ってやっていれば評価されるほど、世間は甘くないよね)
特にある程度の年次・ポジションになったのならば尚更、周囲の模範となるべきだ。
自ら開示してフィードバックを恐れない姿勢、受取コストが小さくなるような情報の抽象化、後から掘り起こしやすい蓄積方法やメンテナンス、とかとか。
まあ、忙しいと手が回らず忘れちゃうんだけども。
2. マネジメント
いざマネージャーになると、何かと他部門とのハブになることが多くなる。
そうなると、色々な人に話したり聴かれたりする状況が増えていくので、物事を論理建てて説明できること自体、持つべきスキルである。
(僕はそもそも早口でモゴモゴ喋りがちだから、あまり発揮できてない時もあるので、ぜひ気をつけよう)
特にデータプロダクトという領域は、各パートナー小売企業に紐づくローンチ・運用・問い合わせ・グロース、開発における機能追加・ロードマップ策定、将来に向けた事業開発・商談同席など、マトリックス組織において縦にも横にも前にも引っ張られる。
有り難いことにあちこちから引合は止まないし、モテること自体は満更でもないのだが、当然何かといつも忙しいし、黙っていたら目の前の出来事に忙殺されてしまう。
これは、自分たちでデータプロダクトという新しい概念を括り出して組織や業務領域を作っていく以上、あらゆる望まれる要件に埋もれる中から抽象化されたあるべき姿が見えてくるだろう、という楽観的な思惑もあったりする。
それ故の他部門との調整・時として発生するハレーションも無いわけでは無いが、最近は成長痛として楽しめるようになってきた気もする。
(個人の人格とは切り離すのがコツらしい、ようやく分かってきた、じゃないとちと辛い)
一方で、マネージャーとして組織や業務領域を任されている以上は、将来から逆算して現在は何にフォーカスすべきかを考えたり、やるべきことを絞ることも、大切な役割である。
これについては、思考・試行のプロセスから開示したり、なるべくオープンかつ丁寧に時間をかけて繰り返し説明するようにしている。
社内Slackに「大声作業しなさい」というスタンプがあるのだが、これがめちゃくちゃ好きだ。
なぜならば、データプロダクトが新しい概念である以上、誰しもが明確な答えを持っておらず、皆で一緒に作り上げていきたいものだからである。
裏を返すと、情報の非対称を逆手に取ってチームの舵取りをするようなことは、絶対にしないようにしている。
(過去の会社でやられた時にはすごく嫌だったな、これはずっと心がけたい)
サーバントリーダーシップ関連の書籍には、「リーダーシップとはフォロワーが目標に向かって自発的に動く状態を作ることであり、そのためには個人のwillが伴っているのが大事。」と書かれている。
僕たちは決して大規模なチームではないけど、あくまで現場を知る人物から情報を吸い上げて判断する・個人の裁量やwillに任せることで、黄色信号が灯るまでは、独善的に口や顔を出して情報に埋もれ過ぎないようにしたい。
たとえ問題が起きてしまった時にも、
- ここでは役割として、特定のスタンスに徹しよう、帽子をかぶり直してっと
- この状況でこういうことを言えるのは自分だけだよな、みんな言い辛いだろう言うかぁ、しゃあなしやで
- 結局こうなってるのも自分のせいだよなぁ、何とかするのも自分次第だよなぁ、やるかぁ
・・・こんな風に思えるようになってから、そこそこ楽にできるようになった気がする。
これも説明責任の果たし方の一つであり、いままで経験してこなかった役割だよなぁ、と思っている。
まだまだ勉強中だが、あくまで役割という思想は首尾一貫していきたい。
(もし鼻が伸びていたならば、誰でも遠慮なくへし折ってくれよな)
3. 採用
この半年において、当チームのポジションはP1であったことから、採用は重要なイシューの一つであった。
特にデータプロダクトという領域について、他社を見渡してもそれが合致するような仕事は、現時点であまり存在していない。
データアナリスト・データサイエンティスト・アナリティクスエンジニア・データエンジニア・アプリケーションエンジニア・プロジェクトマネージャー・プロダクトマネージャー・・・
などなど、それぞれの職種のエッセンスを微妙に取り入れたりしながら、なんとかジョブディスクリプションを形作っていった。
そして募集をかけるのみならず、応募いただいた後のプロセスにおいても、前例の少ない職種がゆえの難しさがある。
社内に対しては、なぜこの候補者がジョブディスクリプションを満たせるスキルや経験を持ち合わせているのか、を説明する責任がある。
他職種の立場にとっても、候補者がどういう人なのか、どう会社を強くしてくれるのか、それは選考においてどう証明されたのか、オファーは何故その等級なのか、などはきちんと説明されるべきであろう。
感じた思いを頑張って文字へと落とし込み、新しい職種であっても咀嚼しやすいように気を配った上で、情報の受け取り手を想像しながら言語化しておく。
また、候補者自身に対する説明責任・オープンネスも、非常に大切な要素である。
特徴的なトライアル選考において、候補者が持つスキルをなるべくスムーズかつ存分に発揮していただくために、事業や組織の状況を十分かつ過剰にならないようにインプットする。
あるいは、限られた時間の中で情報の海に溺れてしまわないように、地図や羅針盤を整えておいたり、最大限寄り添う努力をする。
ご縁があった際のオファーレターの内容にも、
- あなたがなぜ、ジョブディスクリプションの役割を果たせると思うのか
- 発揮が期待されるスキルや経験・お任せする業務内容は何か
- 私たちを取り巻く環境として、中長期的にどんなことが起こり得るのか
- その環境の中で、あなたに求められる成果と待遇はどう紐づくか
・・・などなど、客観的事実と情熱を織り交ぜて、時間の許す限り徹底的に言語化してお渡しする。
(結果としてこの半年で、つよつよな2名にチームへJoinいただきました、本当にありがとうございます!)
これらの心がけは、あるチームにおける採用上のヘッドカウント、ひいては原資の少ないスタートアップでの予算を預かる立場として、果たさなければいけない説明責任の一つである。
タイムラインごとの事業の状況を大まかに見通した上で、必要な役割や人員を推定し、現状との差分を埋めるために、誠実な採用活動を進めていく。
予算という観点では、業務を進める上で発生する、サービス利用やベンダー契約も同じことだ。
金額的に大きい投資をするときには尚更のこと、なぜその契約が必要なのか、相見積もりをとった結果その金額が妥当なのか、それによって得られるリターンをどこに投下するのか、などを説く必要がある。
(説明責任を果たした上で、意思決定を滑らかにするという責務については、アナリストに通ずるものもあるのかも、なんて思ったり)
4. 成果報告・評価
採用に加えて、人事制度におけるプロセスにつき、ここ半年で2回ほど慣れない評価をしてみて思ったことがある。
データプロダクト部を構成する面々は、出自がデータアナリスト・サイエンティスト・エンジニアなど、多様なバックグラウンドからチームが形成されている。
それぞれ最も価値が出る得意分野に分業されながら、各々が極めて重要度の高いイシューに取り組んでおり、当たり前だがこれは一概に比較ができるものではない。
評価はまさにそれで、他部門で普段業務の関わり合いがない人に対しても、各々が取り組むイシューの重要度・成果をどれだけ説明できるか、が極めて重要になる。
10Xの人事評価制度は、組織規模の割には非常に強固なもので、成果・能力・リーダーシップといった観点からの言語化が全社的に徹底されており、結果として納得感を持つことができる仕組みが敷かれている。
(僕が今までに在籍していた、上場してガバナンス意識が高い企業・成果主義を謳う企業のどれよりも、評価をする・される・閲覧する三方に誠実だと思う)
ただし、これは評価プロセスに一定の負担を要求されることの裏返しでもある。
特に、短期で直接金額的なインパクトが出る訳ではないイシュー、例えばアーキテクチャへの投資や組織作りへの種まき活動について、これらの成果報告・説明責任を全うすることは、極めて難易度が高い。
そこで心がけているのは、たとえ中長期的な取り組みであったとしても、将来的な理想像を明確化した上で、逆算的に評価期間での短期的なチェックポイントを置き、共にセットで説明可能な状態にしておく、ということだ。
このほうが、フィードバックをする側・もらう側当事者同士もさることながら、客観的な他者から見ても納得感が得られやすい。
手厚い評価プロセスそのものは、人によってはただ手間がかかるもの、とも捉われてしまわれかねない。
僕が上長に言われたのは、マネジメントはリソースアロケーションで成果を出すものである、ということだ。
チームの置かれる状況を俯瞰しつつ、なるべく個人のwillにも寄り添った形で目標を共に考えて言語化し、それに集中できるようなリソースアロケーションを行う。
だからこそ、泥臭い地味で面倒なところは必要に応じて請け負い、スペシャリストには得意領域に集中してもらい、その成果はチーム全体のスループットとしてアピールさせてもらう。
(イコール自分で手を動かしてることも多いので、それはそれで良くないから何とかしたい、マジで)
結局は、チームで成果を出してなんぼの世界である。
定性と定量・サポートとプレイングを使い分けながら、いかに成果報告や評価で説明責任を果たすのか、今後も色々試行錯誤しながらやっていきたい。
結びに
つらつらと書いたが、最後にサイドストーリーを。
昨年10月にデータプロダクト部が発足して以降、改めて責任について考える・実感することが多かった。
半年でも経験とは面白いもので、昨年10月・今年4月それぞれのオフサイトにおいて、個人の価値観カードを取捨選択・5つにクリスタライズするWevoxのバリューズカードについて、自分の優先する価値観が少しだけ変わっていた。
2022年10月の僕は「誠実・愛・感謝・利他的・行動」を最後まで残した。
2023年4月の僕は「責任感・ポジティブ・家族・健康・利他的」を最後まで残した。
ゲーム状況や同時進行メンバー次第なので、何かが大きく動いたわけではないかもしれないが、公私色々あってか自分の変化にも少しだけ驚いた。
“責任感”について厳密に言えば、英語における“Responsibility” と “Accountability”ではニュアンスが違うらしい。
ゲームには”Responsibility”のカードはあるが、”Accountability”のカードは無かった。
上記記事より抜粋すると、
レスポンシビリティは実行責任であるため、実行するメンバーなど複数人が共同で責任を負うことができます。一方で、アカウンタビリティは、成果の説明責任あるいは成果責任があるリーダーが責任を負うことになります。
とのこと。
これは偶然にも、僕自身の解釈した日本語における広義の”責任感”に加えて、元々あったらしい”利他的”マインド、個人やチームの状況などが掛け合わさった結果、偶然にも“Accountability”的概念に近くなっている、ということだろうか。
ただ、これだとどこか自分で無理をしている気もするし、“Accountability”を発揮するのはあくまで仕事・組織上の役割として、同時に属人的でない・再現可能なものにしておく必要もあるよなぁ、ということを考えていたりもする。
そしてこれからは、より一層の成果や意思決定に対する責任など、“Responsibility”も求められるシチュエーションが多くなっていきそうな予感もする。
次の半年では、僕の価値観はどう変化していくのだろうか。